人に優しいシステムを求めて
効率化のためのITから、創造するためのITへ
計算機の曙は、計算それ自体や弾道の計算や国勢調査の統計でした。OA化という言葉通り、一昔前まではコンピュータは「効率化」のためだけに使われてきました。しかし、半世紀と少しの間に長足の進歩を遂げた技術は、コンピュータの効率性を前提として初めて成り立つような新たな世界を切り開いています。
- 軍事や統計や科学技術計算のような専門分野から生まれ出て、
- 金の流れという面白くないけれども(暴言)大切な(必至にフォロー)勘定系やら在庫・発注管理などの企業の大動脈に入り込み、
- インターネットによって諸々の情報処理システムが華開いたのが、
まさに今世紀のこの業界の姿です。見方を変えると、
- 形而上的な内容を取り扱ってきたシステムが、
- やがて現実世界の商品・金を取り扱うようになり、
- 現在は情報それ自体が価値を持つようになり、情報が拡大再生産するようになる
と見ることも出来ます。
穿った見方をすれば、システム屋が企業にシステムを売り尽くしてしまい、保守だけでは食っていけなくなったので新たな商機を開拓しているということも言えなくはないかも知れません。もっとも、現場の人間にしてみれば、企業システムは常に保守開発と新規開発が続いており、まったくもって人が足りないので、人が余っているならどんどん来てくれといった思いです。
計算機が人間を模した人工知能の世界
さて、計算機の能力の向上と共に、より多くの情報が扱えるようになりました。その余勢を駆って、あたかも人のような動きをするシステムを作ってしまおうという試みも多くなされてきました。「計算機が人でないというのなら、計算機の電子ビットで成り立つ人を作ってしまおう」というのが、人工知能(AI)の在り方です。
例えば分かりやすい例としては、囲碁・将棋やチェスのシミュレータが挙げられます。これは棋士という人を作る試みとも言えます。そんなAIの世界の中でさえ、旧来のアルゴリズムの研究者からは「フォースのダークサイドに堕ちる」という冗談さえ投げかけられるモンテカルロ法というブルートフォース的な解法が登場するなどしています。この辺りのお話はとても刺激的なので、遠藤雅伸氏の公式blogにある「【DiGRA公開講座】モンテカルロ木探索とは何か?」などもご覧ください。
さて、こうしたAIの一分野には、自然言語処理も存在していて、最近は実用化されたシステムも数多く登場しています。そして私のような文学部卒の木っ端SEでも、先人の果実を享受してエスペラント翻訳システムを設計・開発出来る時代になりました。もはや「言語は計算出来るか」という命題は、「情報技術の聖杯」と称されるような「永遠の命題」ではなく、或る程度までの見通しを備えた魅力的な命題となっていると見て良いでしょう。
そういえば巷のAIブームが過ぎ去って久しいですが、一過性の事象に右往左往することのない進歩は、着実に進んできています。研究者の方々はブームに巧く乗らないと研究費を持ってこられないという悩みがありますが、その点、趣味の世界で開発している私としては気楽なものです。
計算機は優しくなれるか
ここで佐々木氏の「先人」要求仕様を振り返ると、計算機と意外と相性が良いことも見えてきます。
経験は集合知から
例えば先人たるに相応しい豊かな経験は、集合知で近似値を得ることが出来ます。これがCGM(消費者生成メディア)の考え方です。
例えばGoogleなどにインデックス(索引化)された情報は、量としては一個人の生涯全ての経験の総和を遙かに超越しています。これを結びつけるという意味での質は発展途上ですが、自然言語処理技術の進歩により早晩克服されうる課題の一つだと私は見ています。私が作成しているエスペラント日本語翻訳システムが実装を予定している「共有辞書」や「共有翻訳メモリ(文例)」という機能も、その一環です。
このように、ドッグイヤーとも称される日進月歩のこの業界では、新たな理論や技術という玩具を巧く使って素敵なシステムを作る余地が広大にあります。フロンティアは日々進み続けているのです。
心は設計・開発者から
勿論、どんなに優れた技術も、使わなければ意味がありません。1996年頃の我が国のWindows 95ブームの熱に浮かされて世のお父さんが買ったものの、電源が入らなくなったパソコンを称して世のお母さんが「動かなければただの箱」と称しただとか、微笑ましい例を挙げるまでもありません。実際そういう事例がどの程度あったのかは謎ですが。
ともあれ、技術の適切な運用は、開発者の心に依拠しています。
例えばインターネットを前提としたクラサバシステムを作る以上は、ウェブ標準に 従うべきでしょう。その効用の大きさ・多さはとても語り尽くせませんが、特徴的な例として、文字情報と意匠情報との分離を挙げておきます。これらが峻別され ていると、例えばパソコンではなく携帯電話などの入出力装備が限られた環境でもシステムを活用出来たり、さらには音声読み上げ機や点字プリンタなどにも容易に対応出来たりします。おまけに開発生産性が上がるという作り手側の利点も付いて来ます。
エスペラントにも心が通っている
このように少々乱暴に論じてきて気付かされたのは、そもそも何で計算機への言いがかりが気になるかという理由です。業界の「中の人」であるだけではなく、「エスペラントは人工言語だから人間の感情を表現出来ない」などという奇天烈な言いがかりに憤った経験と共通しているからなのかも知れません。
このサイトの主題であるエスペラントも、国際理解を促す「道具」の一つです。しかし、当の作り手であるザメンホフ博士が
「“便利な道具”としてしか使わないエスペラントなんて、窓から投げ捨てろ」(筆者による意訳)
と言っているように、エスペラントには人類人主義(ホマラニスモ)という内在思想があります。エスペラントの立場自体はプラハ宣言の通り中立であり、北一輝でも市民活動でも、右翼も左翼もありません。しかし、エスペラントという道具に込められた愛は、異なる立場の礎として存在しているものです。
ザメンホフ博士が「内在思想を否定するようなエスペラントはエスペラントではない」という意図を明らかにした背景は、或る意味ではドイツのような「戦う民主主義」の性格を見出そうとしていたことが解ります。つまり、エスペラントも然り、計算機も然りですが、道具をただの道具とは思わず、道具に込められた思いを丁寧に拾うことが、道具を真に理解することに繋がるのではないでしょうか。
おわりに ~ システム屋は優しくなりたい
私はシステムを道具だと突き放した極論を仕込みましたが、システム一般を悪く言われると「面と向かって言われた」ように感じもしました。それはシステムを我が子のように思う「中の人」ゆえの思いの発露だったのかと推測しています。システムが人に優しくないという。それなら、人に優しいシステムを作りたい。こう思うのは、いやしくもこの業界にいる者にしてみれば、目標というよりももはや根源欲求として内在している願いであるのかも知れません。
計算機がコンシェルジュのようにおもてなしの心を持って人間社会を支えてくれるという未来絵図を、物語の中に押し込めないための努力が、世界のあちこちで今日も進んでいます。CSKズッコケ音頭のように、オペミスで徹夜のリカバーオペレーションをしている某金融ユーザ系システム会社の中の人でも、心は明日の素敵なシステムを希求しているのです。
何やら途中からIPA主催「IT業界を目指す学生の君へ」作文コンクール(註:そんなコンクールはありません)のような様相を呈してきましたが、「中の人」が日々このようなことを思って仕事や趣味でシステムに触れているということを、少しでも知っていただければ嬉しく思います。
……いやぁでもやっぱり仕事より趣味の開発の方が面白いです(笑)。